中田は大魚だったが、怪魚でもあった。さまざまなうわさがついて回った。欲しいのはやまやまだが、とても手に負えないと、広島県内の各有力校、甲子園の常連校が中田育成を諦めたといわれた。だが、ブルペンで投球を見たとき、悪評など西谷の頭から吹き飛んだ。
西谷 すごい球を放っていて、衝撃を超えてびっくりしました。何や、これは!? と。速いし、コントロールいいし、変化球もいい。すべてが突出していました。
心をわしづかみにされるとは、このことだった。気がつけば、西谷の足は広島に向いていた。金曜の夜、午後8時にスーツ入りのバッグを抱えて大阪・大東市のグラウンドを出発。新大阪駅から午後9時半の下りの新幹線に乗り、広島駅前のビジネスホテルへ。翌朝7時前に河川敷グラウンドで練習開始を待ち受けた。中田はチームメートより1時間早く先乗りし、グラウンドを整備していた。 人より早く来る姿勢、休憩時間に小学生にからかわれる姿、圧倒的なブルペン。すべてを総合判断し、入学を待ち望んだスーパー中学生は05年春、大阪桐蔭にやって来た。
西谷 失敗はできない子だとは思っていました。「ほら見てみ」みたいになったらイヤだったんで。でも、やっぱりいいヤツだった。昭和のガキ大将ですが、野球に関して言うなら純粋な子。道をそれることは高校3年間で1度もなかったし、後輩をいじめたりもしなかった。
寝坊、授業中の居眠り、試験の赤点。そのときは当然、中田を叱った。だが許せないと思ったことは、1度もなかった。
西谷 「中田、大変やったやろ?」とはよく言われましたが、全然大変じゃなかった。楽しかったです、3年間。
大阪桐蔭は、中田が入学した05年夏の甲子園で4強入り。メンバー入りした中田は1回戦・春日部共栄(埼玉)戦で、緊張で本来の力を出せないエース辻内崇伸(元巨人、現埼玉アストライア監督)を好救援し、決勝ソロも放った。接戦を制しての初戦突破は、監督・西谷にとっての甲子園初勝利だった。
今と変わらんね
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Source: なんJ PRIDE
大阪桐蔭監督「中田翔はいいやつだった。高校時代後輩もいじめたりもしなかった」