2019年4月5日 9時50分
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/16269789/
「羽生結弦に国民栄誉賞」舛添要一が素直に喜べない理由
https://ironna.jp/article/9867/
(中略)
第一の問題は、明確な基準がないことである。「民間有識者」の意見は聞くが、最終的には内閣総理大臣が決めるので、首相個人の意向次第になる。
首相とて「神ならぬ身」であり、公平な判断ができるわけがない。
また、そのときの「空気」、世論の動向に左右される危険性が大きい。
それだけに、時の政権によって人気取りの政治的目的に使われるのではないかという疑問が呈されることになる。
(中略)
要は、そのときの大衆のフィーバーの度合い次第であり、それに政治家が便乗するのはポピュリズム(大衆迎合主義)以外の何ものでもない。
まさに、「パンとサーカス」の劇場型政治である。パンとサーカスは、為政者が自らの失政を隠し、国民に政治への関心を持たせないようにするための道具である。
第二の問題は、受賞者にも重荷になるということである。こんな賞をもらうと、国民の模範となるべく品行方正に努めなければならなくなる。
特に若いころに受賞すると、その後の人生に「栄誉」を背負っていかねばならなくなる。息苦しい限りだ。
プロ野球の盗塁王、福本豊は「立ち小便もできなくなる」と言って辞退したという。
(中略)
極端な想定をすると、引退後に人生を間違えて犯罪者になろうとも、現役時代の記録は不滅である。
下手に国民栄誉賞など受賞していたら、それこそ全人格的に否定されて、金メダルまで剝奪しようという暴論すら出てくるかもしれない。
若いころ、スポーツ選手だった人間が、年月を経て政治家や経営者になることはあるが、そのような職業には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきものである。
国民栄誉賞などを背負っていれば、リスクを冒したくないので、政治活動や経営をのびのびと実行することが不可能となろう。
つまり、現役引退後の長い人生で、憲法で定められた基本的人権である「職業選択の自由」すらなくなってしまうのである。
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Source: 筋肉速報
舛添要一「国民栄誉賞は廃止すべき。スポーツ選手を政治の道具にするな」