1: 以下、名無しで筋肉速報がお送りします 2018/08/27(月) 20:16:40.87 ID:CAP_USER9
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在りし日の三沢選手と(右=提供写真)/(C)日刊ゲンダイ
1990年代
1990年代、全日本プロレスで三沢光晴、川田利明、小橋建太とともに“四天王”として暴れまくり、2000年に旗揚げしたプロレスリング・ノア参加以降も看板レスラーとして大活躍。本日登場の田上明さん(57)だ。5年前に引退したが、今どうしているのか?
■意識不明に…出血性ショック死の可能性も
「今年3月に胃がんが発覚してさ。全摘手術をしたのが4月16日。今はリハビリをしながら、のんびり暮らしてますよ」
え? 田上さん、がんだったの?
「そう。それまでステーキなら1キロぐらいは軽く食べてたけど、今じゃ150グラム食べるのもやっと。120キロあった体重が20キロほど痩せて、100キロあるかないかだよ」
田上さんと会ったのは茨城県つくば市郊外、最寄りのJR常磐線牛久駅からクルマで10分弱の「ステーキ居酒屋 チャンプ」。2歳年上の姉さん女房の清美さんと二人三脚で経営している。
胃がん判明の経緯は?
「まず、3月1日に知人宅で貧血を起こして倒れてさ。翌2日にも別の知人宅で倒れて左側頭部を6針縫うケガをしたんですよ。で、3日早朝、今度は自宅で倒れて意識不明。救急車で病院に担ぎ込まれたんだ」
検査したところ胃潰瘍で胃に穴があいており、そこから大量出血。
「出血性ショック死の可能性もあった」ほど重篤で、400㏄の血液パックを5パック使用して最悪の事態を免れた。ところが生体検査によって、胃がんも判明……。
「担当医は『悪性です。全摘しか助かる道はありません』って。にわかに信じられなくて夢かと思ったよ。だって2日の夜まで焼酎の水割りをガンガン飲んでたから」
体力の回復を待ち、4月16日に手術。無事成功したものの、1週間後に切創が離開したため、丸2週間の入院となった。
「転移はないみたいだし、定期検査をちゃんと受けて、食べ物にも気をつけてれば何とかなるでしょ。とはいっても、酒がやめられなくて、焼酎のロックをチビチビ晩酌してますよ。ハハハ」
■ノア社長時代は自らの給料をカット
さて、埼玉県秩父市生まれの田上さんは、高校時代に相撲で鳴らし、卒業を待たずに3年生の3学期に押尾川部屋へ入門。80年1月場所に本名で初土俵を踏んだ。その後、玉麒麟にしこ名を改め86年5月場所に十両に昇進。だが、幕内昇進の直前に親方と仲たがいして、87年初夏に廃業してしまった。
「体力はあるから、トラックの運転手になろうかって思ってた。そしたら知人の三遊亭楽太郎(現6代目円楽)師匠に天龍(源一郎)さんを紹介していただき、トントン拍子でプロレス入り」
88年1月に故ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入団。馬場とのコンビによるタッグ試合で華々しくデビューするや、192センチの長身と打たれ強さでメキメキと頭角を現し、92年3月には故ジャンボ鶴田とのタッグで世界タッグ王座を奪取した。
「リングに頭から叩きつけられても、すぐに起き上がって反撃する激しい試合が当時のスタイル。正直、キツかった。特に96年5月24日の三冠ヘビー級選手権で故三沢さんから三冠を勝ち取った試合は忘れられないなあ」
その三沢を社長に、プロレスリング・ノアを立ち上げたのは00年6月。当時の人気レスラーを揃えていたため、日本武道館や東京ドームでの興行が定期化するほど人気を誇った。
だが、09年6月13日、三沢が試合中の不慮の事故により他界。田上さんは2代目社長を引き継ぎ、プレーイングマネジャーとして奮闘した。
「集客力が落ちて営業的には苦労ばかり。スタッフや所属レスラーに協力してもらって、何とかやりくりしたよ」
売り上げダウンにより、やむを得ず自らの給料をカットした。
「若手選手より安かったのではないか」とは、あるプロレス雑誌の記者の証言だ。
追い打ちをかけたのが、持病の不整脈。長年の激闘により、体中ケガだらけで13年春にドクターストップ。その年の12月7日、有明コロシアムで引退試合を行い、現役にピリオドを打った。
「16年11月まで社長に専念して、去年2月まで相談役。ノアと縁は切れたけど、所属選手だけでなく、遠くはドイツからもファンが店に食事に来てくれるから退屈はしてないね」
清美さん、1男1女と4人暮らしだ。 (取材・文 高鍬真之)
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Source: 筋肉速報
【悲報】元プロレスラー田上明さん 胃がん&全摘手術でリハビリ中と明かす